昭和40年6月17日 朝の御理解 ★
昨日、原さんのところの、お、謝恩祭でございました。(ひとり?)参りましてから、(あとの?)庭にあの、梅の木が植えてあります。その梅の木が枯れてしまってるんです。どうしたらと聞いたら、油虫がついてから枯れてしもうた。
例えば木、一本の木でも、油虫がついたために枯れてしまうような場合、どんな虫が入って、えー、枯れてしまう場合、外からと内から、ここんところを私は大事にしていかなきゃならんと思う。
私は思う、信心の心もやはり同じ事。外側に油虫がついたんじゃ信心が枯れてしまう。勿論、心(にうしがする?)いわゆる獅子身中の虫と申します。心の中に、こういう心があっては絶対信心が育たないという、いや育つだ、育つのではなくて信心が枯れてしまう。
そういうようなものを私共は何時も見極めさせて頂きながら、おかげを頂いていかなければならん。そんな事を思わせて頂いておりましたら、もう、以前でしたけど、★頂きましたご理解の中に、話をするばっかりの先生。言わば口ばっかりの先生。聞くばっかりの信者と、ね。
言うなら信者の懐具合やら、信者の顔色ばっかり見ておるような先生のところでは、助かりも出来んが、あ、生き生きとしたおかげは頂かれんということだと私は思う。
信者の顔色ばっかり見ておらんならん。信者の懐具合ばっかり狙っておる。これでは、信者も助からん、教会も、おー、繁盛しない。どういう場合でも、ただ、信者の顔色ではなくて、それこそ神様の顔色ばっかり見ときゃいいのである。そういうようなあり方にならせて頂いたら、ね、油虫がついて、えー、付こうとしても油虫が付くおそれがない。勿論心の中から、(いい?)獅子身中の虫が出来るという事もない。
これは前にお取次ぎをさせて頂く、言わば先生の立場なんですけれども、の信心だけれども、ほんなら皆さんの場合は、どういうような事になるだろうか。まぁ色々ここに考えてみなきゃならない。
そんな事を、を、思わせてもらいよりましたら、あの、★白扇を頂いた。扇子ですよね。あれは暑い時に涼しい風を送らい、送るというものですけれども、白扇を持つということは、あー、なんとうなしに、そのきちっとするもんですよね。
例えば、あ、きちっ、浴衣(がてに?)扇子はもたん。は、じゃ(ほうじゃ?)袴でも着けた時に、扇子をもっといよいよきちっとした、言わば姿勢というか態度というかね。(いやがりがた?)の信心では、やはり同じ(個所?)というても団扇くらいな物。ですから、あ自然、浴衣(着?)くらいの信心では、長うなったり、ね、足を崩したり出来る。そういうような時に、やはり私は油虫はつきいるもんではなかろうかとこう思うんです。ね、いわゆるきちっとした信心、ね。
信心をさせて頂く者は変人になれと仰る。変人とは直ぐいことぞとこう。これはきちっとした信心しとらなければ出来ん。人がこう言うたから、あー言うたからと、そちらの方へ直ぐ、あちらへぐらり、こちらにぐらりと(直ぐい?)ような信心では駄目。
これが本当だと思うたら、誰が何と言うても、ね、そこに変人ぶりを発揮していけれる信心。変人とは直ぐいこと。直ぐいとは正確なこと。真っ直ぐい事。ね。そういう信心をいよいよ身に付けてまいりましたらです、油虫におかされることもなかろう、獅子身中の虫におかされることもないだろう。
皆さんはそういうような信心を一つ、なさらなければいけません。浴衣(がけ?)のような信心じゃいけません。ね、やっぱり羽織袴を着けたような、きちっとした、その上、白扇の一つもこう持ったような信心。ね、そこに、涼しい風を(さきの?)それをで、えー、頂くことも出来ると同時に、末広のおかげが約束される。じゃぁそれをまた取り次がせて頂く先生を、としてはただ今申しますように、ね、信者の顔色ばっかり、ね、見る先生では駄目。ね、神様の顔色だけを見て行けばよいという信心、先生。
私共の信心を虫食むもの、それは、んー、外から油虫であり、中からは獅子身中の虫である。ね、信心がもう(むしばまれたら?)ね、また枯れた信心では長年信心を続けておっても値打ちはない、ですから何時も生き生きとしとらなければいけん。何時も求める心がなからなければいけん。
どうも、信心が段々後者になってまいりますと、大体もう先生が言うことは分かった。そうなりますと、もうご理解も本当に身に付かん。私はこの午前中奉仕させて頂いてから、午前中御祈念にお参り出来ない方達が、ね、あの今朝の御理解どげなご理解じゃったじゃろうかというて、その、直ぐ、うー、テープでも聞かせて頂こうとなさる、ん、人達。または、もうそれを、おー、聞かずに慌て回って帰って行く人達。そういうような、一時に結局心の生き生きしたものの有る無いを感じるのですけれど。まぁそれはそれだけに限ったことじゃないですけれどもです、ね。
私共の心に生き生きした、求め心、求道心というものがです、有るか無いかということを何時も、自分の心の中を見ていかなきゃいけんのです。もうしその、求道心なす、なるほど体は椛目に運んでおるけれども、求道心がかけておるならばです、ちょっとおかしいんですよ、油虫が付きかかっておる。獅子身中な虫じゃなかろうかと。まず一つ思うて見なきゃいけない。ね。言わば浴衣がけの信心を、言うようなことになっておる。ただ、だから、だから形では分からない…、ね。
先日から、神様はね何かにそのお気付け下さるん(でそうな?)久留米の野口さんが、お孫さんを連れてお参りして見える。あーその御祈念の後に参って見える、野口さんがしゃっちあのテープ聞かな帰らんち言わっしゃる。私そういう時にですね、野口さんが、もし考えなければならないことはです、あらこの頃真剣に求める心が掛けておるから、神様が子供を使うてござるな、と言う風に思わにゃいけんとこう私は思う。
ね、から、まぁ、まぁ本当だいたい、いー、ご理解を頂いて帰りなさいます。けれど私それが、頂いて行かなきゃいけんからじゃなくてです、言わば子供から催促されなければならない、というような時には、もう少しですやっぱりその生き生きとした求道心が掛けておる時です。
ね、お参りをして見える。誰かが、一生懸命ご理解、もうこの頃テープがありますから私がここでは、(にっちゅう?)はほとんどご理解を説きません。頂きたい、な人は皆テープを頂いていくだろう、からと思うから。ところが先生が言わんとを幸いにしてから、拝んだらすっと帰る人が段々多くなった。
あそこで一生懸命ご理解を頂きよる人のあっても、さぁ(そとこでも?)御届けをしてから、御祈念をしてすっと帰る。あー言う時に、ね、御届けも、御届けは後からでよし、拝むとは後からでよか。もうあそこでご理解(だけ頂きよらんならば?)直ぐあそこに参って、あー、前に行ってからご理解を頂き終わってここに見えると言ったような場合、私大変気分がいいですがね。
私が気分が良いって言うのは、おかしいですけれどもね。折角ここに信心の稽古に通うてくるところと仰るのに。ね、稽古に通っておるという思いが段々薄らいで来る。ただ拝んでおる、ただお参りしておると。ただ日参が宗制になって、くせのようになって来ておると言うような、そういうような、あー信心になってまいりますとです(へて?)して、私は、んー、あ、油虫が付きやすくなって来るのじゃなかろうか、あー、獅子身中の虫がおっても着が付かんのじゃなかろうか、と言う風に思うのです。
ね、どうぞ一つ、きちっとした、正確な信心。為にはまず、一つ変人になれと。変人とは直ぐい事と仰る、信心が。ね。
今日の、おー、御理解。結局私共と皆さん、私の立場と皆さんの立場違うような話をしたんですけれども、同じことなんです理屈は。ね、私共でもです、ね、皆さんの顔色ばっかり見たり、皆さんの懐具合ばかりを、おー、狙ったり。ね、するようになったら、もうおしまいである。ね。
これは、三代金光様が、まだ若い時分。福岡の吉木先生が、んー、(もんな?)が70幾つでしょうか。40幾つか、30年くらい前の話なんです。壮年教師の信心の、おー、心修会がご本部で開かれた。特に金光様が、壮年教師の方にお話をなさっておられる事が、(半身、だりまんずりでにまい?)もうこれは、まだ若い先生方には見せられない。一般信者には見せられんと(いよろうに?)その時分に言われた、あー、内容のものであった。
当時例えば、あー、御道の信心で神様からお知らせを頂くといったようなことはもう出来るだけ、こう、おー、無くしようと。昔の霊徳に、んー、高かった先生方の御本なんかはもう、うー、教徒社へ行っても、もうカギを(そめて?)ないと言う時代なの。今でもやっぱりそういう稽古が、大変強いんですけども。その時分の話です。
金光様は、神様から一々を、そのお伝えを受けられた。もうそれこそ千里眼のような、その、お徳を受けておられるですね。だからこそあれだけのお取次ぎをお出来になられたんですよ。それを段々、あのー、御晩年にいたってはそれを一々仰らないようになった。お若い時にはそれを仰っておられたらしいですね。
その中にですね、ある先生に話しておられますのに、ある時にお賽銭箱の(ぐるを?)グルグル、グルグル回っておる先生がありますから、どこの先生じゃろうかと思うたら何処何処の先生でしたと仰った。その先生、(2キロじゃったそうだ?)私共(しりょういきじょうがん?)と言う時代がございます。
何処の先生だろうかと思われましたら、何処何処の先生でした。お供え物のグルをグルグル、グルグル回っておった生霊があったと。そういう先生の所ではごひれいが立ちませんと仰ったそうです。ね。
お賽銭やら、お供えやらのことだけに気を捕られとる先生のことを仰ったんでしょうね。ところがです、ご結界の後ろにはですね、グルグル、グルグル回っておる生霊あると。そしてその、その金光様の側に寄りとうてたまらんごたる風で、袖をこう引っ張ったりですね、(もかっこう?)体にこう障ったりする生霊があると。そういう先生の所では必ずおかげが頂けますと仰ったそうです。
ね、それを私は、福岡の、いや、おかげを頂いておる時に、大坪さんこれは他んもんには見せられんばってんっち言うてから、あの、見せて頂いたことがございます。ですから、私のことをが(頼りこむ?)人が沢山ありましたけれども、ね、色々神様からお知らせを頂くということに対してですたい。ありゃ、神様から色々お知らせを頂くということは有り難いことだという風に、私だけはそう思うておった。
いわゆる、誰が何と言うても、いわゆる変人ぶりを発揮させて頂いた。これは本当だということを、やはり私は行じ抜かせて頂いて来たつもりである。ね、皆さんの場合でもそうである。お賽銭箱の(ぐるる?)グルグル回るような、お供え物もこれをグルグル回るような魂ではおかげは受けられんというだけではなくて、ね、そういうような有り方には、遊楽が待っておる。ね、油虫が付きやすい。獅子身中の虫がおっても気が付かん。おー、そりゃ自分の信心をいよいよ検討していかなきゃいけません。おかげを頂かれました。
7/5終了 梶原 佳行